アーティストは政治的発言をすべき?
「アーティストは政治的発言をすべきだ」と強く求める人たちの中には、実のところ、「自分たちの思想に沿った発言をしてほしい」と願っているだけではないか、と疑っている。 思想が一致している時は、 「勇気ある発言」 「表現者として素晴らしい」 と称賛する。 ところが、少しでも方向性が異なると、途端に、 「失望しました」 「もう聴きません」 「権力…
「アーティストは政治的発言をすべきだ」と強く求める人たちの中には、実のところ、「自分たちの思想に沿った発言をしてほしい」と願っているだけではないか、と疑っている。
思想が一致している時は、
「勇気ある発言」
「表現者として素晴らしい」
と称賛する。
ところが、少しでも方向性が異なると、途端に、
「失望しました」
「もう聴きません」
「権力側に取り込まれたのか」
といった空気になる。
つまり、そこで求められているのは、必ずしも「表現の自由」ではない。
「自分たちの正しさを代弁してほしい」
という願望なのだ。
イデオロギーの内側に閉じこもり、そこから一歩も出ようとしない。
そうした姿勢こそが、アーティストを政治的発言から遠ざけ、うんざりさせる。
私はミュージシャンとして、政治的な事柄を語る際に、昔からひとつだけ強く意識してきたことがある。
「自分の音楽的利益のために政治を利用しない」
平和について考える。
社会について考える。
それ自体は、人間として自然な営みだと思う。
だが、そこに、
「この発言で好感度を上げよう」
「この層にウケたい」
「ブランディングに利用しよう」
という計算が透けて見えた瞬間、私は急に冷めてしまう。
音楽業界や表現の世界には、独特の空気感がある。
ある種の左翼的イデオロギーが、「良識」や「知性」のように共有されている場面が少なくなかった。
その空気に合わせ、わかりやすい正論だけを叫び、拍手や「いいね」を集める。
そういう振る舞いのほうが、ずっと生きやすかった時代もあった。
だが私は、昔からそこに強い息苦しさを感じていた。
だから、私が政治的発言をしても、ミュージシャン界隈の誰にもほとんど「いいね」されないまま、書き続けてきた年月も長い。
密かに共感してくれる人は少なからずいた。
だが表立っては、「左翼的であること」が、まるでミュージシャンの資格のような空気が、数年前まで確かに存在していた。
私は、ミュージシャンである以前に、一人の人間として、自分の中で納得しきれていない言葉を口にすることに、耐えがたいほどの恥ずかしさを感じてしまう。
そして、イデオロギーの中にアイデンティティを置いた瞬間、その音楽は急速に古臭く、小さく、そして“ダサく”なる。
音楽が本来持っているのは、答えではなく、
問いだと思っている。
「わからなさ」
「揺らぎ」
「矛盾」
そういったものを抱えたまま、それでも鳴らし続けること。
その中にこそ、音楽固有の誠実さがある。
正しいと思い込んでいる側に立つことで得られる安心感は、時に、音楽から“揺らぎ”を奪っていく。
気がつけば、それは音楽ではなく、
「良い子の歌の学級会」
みたいな、閉じた集いになってしまう。
私は、そういう場所に、はじめから属する気がない。