座右の銘
もし自分に座右の銘のようなものがあるとしたら、たぶん 「常識よりも本質を」 である。 これは大げさな人生訓みたいな顔をしているが、実際にはもっと地味な場面で、しょっちゅう自分に言い聞かせている。 たとえば、EQをどこでどう触るか、みたいな時である。 私はそこですら、わざわざ口に出すことがある。 常識よりも本質を。 なぜそんな確認が必要かと…
もし自分に座右の銘のようなものがあるとしたら、たぶん
「常識よりも本質を」
である。
これは大げさな人生訓みたいな顔をしているが、実際にはもっと地味な場面で、しょっちゅう自分に言い聞かせている。
たとえば、EQをどこでどう触るか、みたいな時である。
私はそこですら、わざわざ口に出すことがある。
常識よりも本質を。
なぜそんな確認が必要かというと、放っておくと人はすぐ常識の側に戻ってしまうからだ。いや、戻るというより、もう最初からそこに住んでいる。
経験を積めば積むほど、定番の判断、無難な処理、よくある正解が、身体に深く染みついてくる。
これは便利である。
速いし、大きく外しにくい。職人的でもある。
しかし、そこに安住し始めた瞬間、表現は少しずつ死ぬ。
常識では、たしかにこっちなのだろう。
低域はこう整理して、中域はこう避けて、痛い帯域はこう落として、空気感はこのくらい足して――その手順自体は、別に間違っていない。
むしろ多くの場合、かなり正しい。
だが、その曲がほんとうに欲しがっているものは、いつも常識の中にあるとは限らない。
この曲の本質は何だ。
このボーカルの妙な生々しさは、ほんとうに整えるべきものなのか。
このギターの耳障りな感じは、欠点ではなく、むしろ快感の入口ではないか。
というか、理屈はさておき、こっちのほうが聴いていて気持ち良くないか。
面白くないか。
そういう問いは、だいたい常識の外側からやって来る。
もちろん、その外側はしばしば危険である。
気持ちよくなって大胆なEQをして、「これは発明では?」みたいな顔でその日は寝る。
そして翌朝、冷静な耳で聴いて、「いや、これはただやり過ぎだな」と悟る。
昨夜の自分が未来を切り開いた革命家ではなく、単に興奮してノブを回し過ぎた人だったと知る朝である。
その瞬間、人は思う。
やっぱり常識は大切だな、と。
実際、大切なのである。
常識は敵ではない。
積み重ねられた失敗と成功の統計であり、多くの人が痛い思いをしながら見つけた、かなり信頼できる地図でもある。
問題は、その地図を世界そのものだと思い込むことだ。
アートは、地図通りにたどり着くことではない。
地図を全部頭に入れたうえで、それでもなお「こっちのほうが妙に気持ちいい」という直感に賭けることだと思う。
つまり、常識を捨てるのではない。
常識を全部知った上で、
その先へ抜けていくのである。
そこには少しの勇気がいる。
少しの愚かさもいる。
そして、最終的には快感原則がいる。
正しいからそうするのではない。
生きている感じがするから、そうする。
整っているから選ぶのではない。
その音のほうが、その曲の本質に触れている気がするから選ぶ。
翌朝になって「やっぱり昨日のは違ったな」と戻ることもあるだろう。
それでもいいのである。
その往復の中にしか、自分の表現は育たない。
常識の中だけにいる限り、作品は上手くはなっても、危うくならない。
危うさのないものは、たいてい安全だが、あまり人を震わせない。
だから私は、今日もまたEQの前で、
半分自分に呆れながら確認する。
常識よりも本質を。
忘れたら、ただの優等生になる。
知った上で踏み越えて、
はじめてアートになるのである。