恩人
トム・ウェイツ、エルヴィス・コステロ、トーキング・ヘッズ……。 麻田浩さんのことを書こうとすると、自然と背筋が伸びる。 それは、彼が日本の音楽シーンにおいて築いてきた功績の大きさに対する畏怖以上に、彼がつねに「本物の音楽」に対して誠実であり続けてきた人だからだ。 1970年代、麻田さんが率いるトムス・キャビンが日本に紹介してきたのは、単な…
トム・ウェイツ、エルヴィス・コステロ、トーキング・ヘッズ……。
麻田浩さんのことを書こうとすると、自然と背筋が伸びる。
それは、彼が日本の音楽シーンにおいて築いてきた功績の大きさに対する畏怖以上に、彼がつねに「本物の音楽」に対して誠実であり続けてきた人だからだ。
1970年代、麻田さんが率いるトムス・キャビンが日本に紹介してきたのは、単なる「海外の人気者」ではなかった。
まだ広く知られる前の、しかし確かに時代を変えていく表現者たちだった。
これは、後から当たったものに便乗する話ではない。
まだ世の中が価値を言語化できていない段階で、その音の中にある“ほんもの”を嗅ぎ分ける仕事だった。
たとえば、トム・ウェイツが来日した際、麻田さんは彼の「豪華なホテルではなく、古くて味のある宿がいい」というリクエストに応え、ステージには山盛りの吸い殻が入った灰皿まで用意したという。
こういう逸話には、その人の本質が出る。
麻田さんは、ビジネスとして興行を打つプロモーターである前に、一人の表現者として、そのアーティストが放つ「匂い」や「生き様」を誰よりも深く愛していたのだと思う。
要するに、音楽を“商品”としてではなく、“気配ごと”受け取れる人だったのだ。
そういう姿勢は、日本のライブ文化やフェス文化にも、今なお確実に受け継がれている。
そんな伝説の男の眼差しが、約30年前、まだ無名だった私の音の上にも注がれた。
私と麻田さんのつながりは、一本の宅録カセットテープから始まった。
当時の私は、自宅で独り、テープに音を重ねる日々を送っていた。完成した作品をCDショップに委託していたが、それは単なる自主制作音源ではなく、私にとってはれっきとした「表現」そのものだった。
そのテープを、麻田さんは店頭で見つけ、自らのお金で買ってくれた。
誰かの紹介でもなければ、こちらからの売り込みでもない。
自分の耳と直感だけを頼りに、その音を拾い上げてくれたのだ。
後日、連絡をいただいたときの衝撃は、今も鮮明に覚えている。
驚いたのは、その先だった。
麻田さんは、私のカセットマスターの質感をそのまま活かし、自身のインディーズレーベルからCDとしてリリースすることを決めたのである。
「スタジオで綺麗に録り直そう」とは言わなかった。
カセット特有の粗さや、その瞬間の空気の中にこそ、録り直しのきかない「真実」がある。そう見抜いていたのだと思う。
ここが大事なのだ。
世の中には、何かを見つけた瞬間に「さて、どう整えようか」と考え始める人が多い。
もう少しきれいに。
もう少し売れそうに。
もう少し分かりやすく。
そうやって、作品の命そのものを薄めてしまうことがある。
麻田さんは、そこに行かなかった。
そのままで立っているものは、そのままで立たせる。
それができたのは、麻田さんがプロモーターである前に、一人のミュージシャンだったからだろう。
自分でも歌い、演奏し、録音の現場を知っている人だからこそ、スペックや肩書きではなく、音そのものの真実を信じることができる。
あの出会いがなければ、今の自分はなかった。
それは確信を持って言える。
時を経て、今の私はSugarfieldsとして音楽を作る傍ら、エンジニアとして他のアーティストの音を支える仕事も続けている。
麻田さんがプロモーターとして数々の才能を世に送り出してきたように、私もまた、誰かの音が放つ「いちばん良い瞬間」を掬い取ろうと日々腐心している。
自らもミュージシャンでありながら、ミュージシャンのための裏方でもある。
役割こそ違えど、麻田さんから受け取ったこの姿勢は、今の私の大きな柱になっている。
作り手としての苦しさを知っているからこそ、裏方として、その音の芯にある「呼吸」を信じ切ることができる。
表現することと支えることは、私の中では別々の仕事ではない。
それらは、一つの円を描くようにつながっている。
その感覚の原型を、私は麻田さんから受け取ったのだと思う。
売れているからとか、有名だからとか、そういう理由で音楽と関わっているわけではない。
無名だろうが何だろうが、自分が本当に好きだから、その理由だけで音楽のそばに居続ける。
遠回りに見えても、結局いちばん遠くまで届くのは、そういう人なのだと思わされる。
人の心にいちばん静かに、でも深く影響を与えるのもまた、そういう人だ。