I LOVE N.Y.
ゲイリー・ルーカスの渋谷クアトロ公演を観た。 歴代ニューヨーク・ロックシーンの生き証人みたいな人である。 そしてあの日のクアトロには、まさに「あのニューヨークの空気」が充満していた。 ゲイリーのギターはすごい。 ブルース、カントリー奏法から、ヒップホップ的なルーパー使い、シューゲイザー的なエフェクト、速弾き、泣きの一発チョーキングまで、全…
ゲイリー・ルーカスの渋谷クアトロ公演を観た。
歴代ニューヨーク・ロックシーンの生き証人みたいな人である。
そしてあの日のクアトロには、まさに「あのニューヨークの空気」が充満していた。
ゲイリーのギターはすごい。
ブルース、カントリー奏法から、ヒップホップ的なルーパー使い、シューゲイザー的なエフェクト、速弾き、泣きの一発チョーキングまで、全部ぶっ込まれている。
普通なら散らかる。
あるいは「どうだ、すごいだろう」と見えてしまう。
でも、そうならない。
何気なく聴いていたら気がつかないくらい、品の良いレベルで、それらすべてがグルーヴの中に混ざっている。
あれは技巧の見せびらかしではない。
カルチャーの扱い方なのだ。
まさにニューヨークのアートであり、ジェントルさだと思った。
ニューヨークのカルチャーをあえて雑に一言で言うなら、
「あらゆる歴史的文化の記号を、メタ視点で捉え、徹底的にディフォルメしながら、ポップとして再編集してしまう文化」
である。
要するに、ウォーホールがやったことが、その後ずっと都市全体の骨格として続いている。
高尚な芸術も、
ジャンクな広告も、
黒人音楽も、
移民文化も、
パンクも、
ジャズも、
ドラッグも、
資本主義も、
テレビも、
政治も、
ファッションも。
全部いったん“記号”として横並びになる。
そのうえで、
深刻すぎず、
だが軽薄にもならず、
絶妙なユーモア感覚で再編集される。
だからニューヨークのカルチャーには独特の「照れ」がある。
本気なのに、
どこか少し笑っている。
逆に言えば、
笑えなくなった瞬間に、ニューヨーク感は消える。
昔、私はひとりでニューヨークへ旅をしたことがある。
すると不思議なくらい、街の空気そのものが心地良かった。
もちろん危険もある。
雑多でもある。
うるさい。
汚い。
変な人も大量にいる。
だが、なぜか呼吸がしやすい。
それはたぶん、世界最大級の「人種と文化のるつぼ」だからだと思う。
あらゆる違いが最初から存在している都市では、他人をいちいち定義しすぎない。
「普通はこう」
「常識ではこう」
「こうあるべき」
みたいな圧力が、相対化されていく。
もちろん摩擦はある。
だがその代わり、距離感がジェントルなのだ。
理解したフリをしない。
支配しようとしない。
でも存在は認める。
「まあ、そういう人もいるよね」
という感覚が、巨大都市のマナーとして成立している。
これは実は、かなり成熟した感覚だと思う。
私は昔から、あのニューヨーク的な空気感に強く惹かれてきた。
ジャンルを混ぜる。
高尚さとジャンクさを混ぜる。
真面目さとユーモアを混ぜる。
ロックとヒップホップを混ぜる。
AIと人間臭さを混ぜる。
しかも、どこか少し笑っている。
ゲイリー・ルーカスのギターには、その感覚がそのまま鳴っていた。
あらゆる文化の記号を抱え込みながら、決して声高に説明しない。
全部わかっているのに、偉そうにしない。
深いのに、重くしない。
たぶん私は、そういう「軽やかな知性」に憧れているのだと思う。
世界は重い。
思想も重い。
人生も重い。
だからこそ、少し笑いながら、グルーヴで乗りこなしていく。
それがきっと、ニューヨークという都市が長年かけて育ててきたカルチャーの美学なのだ。