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大人喰いの後悔

子供の頃に夢見た、どんぶりいっぱいのフルーチェと泥のように濃いミロ。夢を一気に叶えた大人が知った、少ししか食べられない幸福。

子供の頃、「フルーチェ」と「ミロ」が好きだった。

フルーチェは、ただのデザートではない。

冷たい牛乳を入れて混ぜると、液体だったものが急にプルプルし始める。子供から見れば、ほとんど錬金術である。

ただし、完成したフルーチェは小さな器に分けられる。

一箱全部が自分のものになるわけではない。

私はいつも思っていた。

大人になったら、これをどんぶりいっぱい食べてやる。

ミロも同じだった。

牛乳に入れてもらえる量では、どうも茶色が足りない。

もっと黒くしたい。

牛乳がミロを溶かしているのか、ミロが牛乳を湿らせているのかわからないくらい濃くしたい。

大人とは、自由にミロを入れられる人のことだと思っていた。

そして大人になった。

ある日、私はついに意を決した。

フルーチェを、大きな器にたっぷり作った。

誰にも分けない。

スプーンも大きい。

ミロも遠慮なく入れた。

薄茶色ではない。

ほとんど泥である。

最初の数口は、夢のようだった。

これだ。

私はこの日のために大人になったのだ。

ところが、フルーチェは半分を過ぎたあたりから、急に態度を変えた。

あんなに優しかったイチゴ味が、前方を塞ぐ巨大な壁になった。

スプーンですくっても、すくっても減らない。

子供の頃は「もうない」と悲しんでいたのに、今度は「まだある」と絶望している。

ミロも同様だった。

濃ければ濃いほど幸せだと思っていたが、濃すぎるミロは飲み物ではない。

工事現場で何かを固めるための材料である。

それでも私は最後まで食べた。

大人には、「自分で始めたことだから」という、子供にはなかった厄介な責任感がある。

そして、その日を境に、私はフルーチェもミロも食べたいと思わなくなった。

身体が拒否するのだ。

スーパーで見かけると、脳は「懐かしい」と言う。

しかし胃は「あの日を忘れたのか」と言う。

考えてみれば、あの美味しさの半分くらいは、「少ししか食べられない」という不自由でできていたのだと思う。

もっと食べたい。

もっと濃くしたい。

その届かなさまで含めて、フルーチェとミロだった。

夢というものには、一気に叶えるべきものと、
少量ずつ捕まえて行くべきものがあるらしい。