イデオロギーの怖さ
少なくともミュージシャンがイデオロギーの中にいるとしたら、その音楽はもうアートでは無くなる。 イデオロギーの中にいることは、たしかに楽である。 そこには、すでに固められた石の土台がある。 その上に立っていれば、とりあえず足場は安定するし、自分は正しい場所にいるのだという、それなりの自己肯定感も得られる。 しかもその土台の上には、 わかりや…
少なくともミュージシャンがイデオロギーの中にいるとしたら、その音楽はもうアートでは無くなる。
イデオロギーの中にいることは、たしかに楽である。
そこには、すでに固められた石の土台がある。
その上に立っていれば、とりあえず足場は安定するし、自分は正しい場所にいるのだという、それなりの自己肯定感も得られる。
しかもその土台の上には、
わかりやすい言葉があり、
わかりやすい味方がいて、
わかりやすい敵もいる。
だから人は、迷わずに済む。
考え続けなくて済む。
自分の立っている場所を、いちいち疑わなくて済む。
だが、楽であることと、
生きていて面白いことは、まったく別である。
イデオロギーは安心を与えてくれるが、
そのぶん景色は狭くなる。
硬くて小さな土台の上に立ち続けるうちに、人はいつしか、自分の見ているものだけが世界のすべてであるかのような気になってしまう。
右の箱に入れば、右に不都合な現実が見えにくくなる。
左の箱に入れば、左にとって都合の悪い矛盾が見えにくくなる。
しかも厄介なのは、見えなくなっている本人ほど、むしろ「自分はよく見えている」と思い込みやすいことである。
イデオロギーの怖さは、
敵を作ることだけではない。
自分の視野の狭さを、確信というかたちで美しく錯覚させてしまうところにある。
私は、右であることや左であることそのものに、あまり大きな価値を感じない。
もちろん現実の社会には、賛成すべき政策もあれば、反対すべきものもある。
それはその都度、個別に考えればいい。
だが、自分の感覚や思考の全部を、最初から「こちら側」という箱に預けてしまうことには、どうしても抵抗がある。
人間は、そんなに簡単に割り切れるものではない。
もっと曖昧で、もっと身勝手で、もっと美しく、もっと情けない。
正義だけで出来ている人間はいないし、
悪だけで出来ている人間もいない。
それなのに、思想や政治の言葉は、しばしば人間を記号に変えてしまう。
あれは保守だ。
これはリベラルだ。
あいつは敵だ。
こいつは味方だ。
そうやってラベルを貼った瞬間に、考える手間は減る。
感情も整理しやすくなる。
だがそのかわり、生きた人間の複雑さは、
たいていそこで切り捨てられる。
私は、その切り捨てられた残りのほうにこそ、むしろ本質がある気がしている。
人がほんとうに苦しむ場所。
人がほんとうに欲しているもの。
言葉ではうまく言えない違和感や願い。
そういうものは、たいていイデオロギーの綺麗な図式から、少しはみ出したところにある。
もちろん、石の土台を降りるのは怖い。
そこには、あらかじめ用意された正しさもない。
味方の拍手もない。
「こちら側に立っていれば安心です」という親切な看板も立っていない。
けれど、生きることの面白さや自由は、本来そういう不安定な場所にしかないのだと思う。
どこにも寄りかからず、それでもなお、自分の感覚で世界と向き合うこと。
揺れながらでも、自分の足で立つこと。
その面倒くささの中にしか、
本当に自分の頭で考えるということは生まれない。
人間は、必ずしもそんな硬くて小さな土台の上だけで、生きていく必要はないのである。