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善人なおもて往生す

「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや。」 私の大好きな言葉のひとつだ。 親鸞のこの言葉は、初めて聞くと少しギョッとする。 「善人ですら救われるのだから、悪人なんてもっと救われる」 そんなふうに聞こえるからだ。 もちろん、ここでいう“悪人”とは、ただ好き放題に生きる人間を讃えているわけではない。 人を傷つけても平気な者を肯定しているわけで…

「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや。」

私の大好きな言葉のひとつだ。

親鸞のこの言葉は、初めて聞くと少しギョッとする。

「善人ですら救われるのだから、悪人なんてもっと救われる」

そんなふうに聞こえるからだ。

もちろん、ここでいう“悪人”とは、ただ好き放題に生きる人間を讃えているわけではない。

人を傷つけても平気な者を肯定しているわけでもない。

むしろ逆だ。

本当に恐ろしいのは、自分を「善人」だと信じ切っている状態なのかもしれない。

人は、自分が正しいと思っている時ほど残酷になる。

歴史を見てもそうだ。

戦争も、排除も、差別も、糾弾も。

多くは「正義」の顔をしてやって来る。

「自分は正しい側にいる」

という感覚は、とても気持ちがいい。

安心できる。

仲間もできる。

自分が世界の中心と繋がった気になれる。

だがその瞬間、人は他者を裁き始める。

「あいつは間違っている」

「あいつは遅れている」

「あいつは汚れている」

そして時々、自分自身の弱さや醜さだけが、きれいに見えなくなっていく。

親鸞が見ていたのは、たぶんそこなのだと思う。

本当に救いを必要としているのは、

「私は正しい」

と胸を張れる人間ではなく、

「自分はどうしようもなく不完全だ」

と知ってしまった人間なのだと。

嫉妬もする。

怒りもある。

見栄も張る。

時々、嫌なことも考える。

間違える。

傷つける。

逃げる。

それでも生きている。

そして多くの人は、人生のどこかで一度は、

「自分は思っていたほど立派な人間じゃない」

と知ってしまう。

だが、その瞬間からしか始まらない優しさもある。

“壊れていないふり”をする人より、どうしようもなく傷ついたことのある人のほうが、信用できる。

自分の間違いや弱さを知っている人は、他人の間違いや弱さにも少しだけ優しくなれるからだ。

空っぽの部分がある人は、そこに他者の痛みも入り込める。

逆に、

「自分は正しい」

と思い込んでいる人間は、

「自分は正しいと思いたい人たち」

を集めて、どこか偉そうな法話を始める。

だが、そういう言葉は、本当に傷ついた人間には、なにも響かないのである。

だから親鸞の言葉は、単なる宗教的スローガンではなく、人間観察として、ものすごく深い。

「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや。」

それは、

「立派であれ」

という話ではない。

むしろ、

「自分の不完全さを知ったところから、人はやっと救いに近づくのかもしれない」

という、静かで切実な言葉なのだと思う。